黒田藩の歴史(1600〜 1868年)

1600年、黒田長政は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康に、恩賞として福岡・秋月を含む筑前国を与えられました。長政はそこに「福岡」という城下町を形成し、福岡藩の初代藩主となります。 そして自身の叔父である黒田直之には一万石を与え、秋月に移り住まわせました。 1623年、長政の遺言により二代藩主の忠之は、弟の長興に秋月周辺の五万石を分け与え、支藩秋月藩が誕生します。 今日のこの秋月城下町の基盤をつくったとされるのが、この長興です。

明治維新まで続いた黒田藩の功績 - 歴史を経て故郷に戻ってきた秋月家の血

時が過ぎること1774年(安永3年)、7代藩主の長堅は、わずか18歳の若さで亡くなってしまいます。藩はこの事実を隠蔽しようとしました。そして翌年、日向高鍋藩主 秋月種穎の次男である幸三郎(のちの名君 8代藩主長舒)を後継ぎとしました。

8代目藩主の長舒は、叔父である米沢藩主の上杉鷹山(秋月家からの養子)をはじめ、先祖に上杉謙信・秋月種実・黒田如水・吉良上野介 ・妻方に山内一豊 などの多彩な血筋を持ち、後に秋月藩中興の祖と讃えられた人物です。

一度は故郷・秋月を離れざるを得なかった秋月家。 しかし、秋月家からの養子であった長舒という人物を通し、長い離散の歴史を経て、ここで今一度合流したのです。

長舒の功績のひとつに、秋月の観光名所「眼鏡橋」の建設が挙げられます。 筑前秋月と筑後・豊前を結ぶ木の橋は、人馬の往来が激しく橋の損傷も著しく、大洪水時には瞬時に流されてしまいました。長崎に警備していた長舒は、長崎の石橋と同じものを野鳥川に架けたいと渇望しました。

着工はしたもの、長舒の想い空しく竣工目前にして橋は崩壊します。病床にあった長舒は目鏡橋の完成を見ることなく1807年(文化4年)に43歳の若さで逝去しました。終ぞ長舒が拝むことのなかった眼鏡橋は、今日に至るまで秋月の観光名所として、長舒の想いを繋ぐ架け橋として地元の人に愛され続けています。

最後の筑前福岡藩藩主である12代・長知は、能楽を好み多くの能楽師達を支援しました。そして初代福岡知藩事となりました。 黒田藩は1868年の明治維新まで、その土地を治めることになります。

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