中世秋月氏の歴史(1203〜1600年)

秋月氏の祖は、平安時代に太宰府を中心として勢力を誇った大蔵氏です。 当主だった大蔵種直は平家政権に属しており、壇ノ浦の戦いで敗れてしまいます。 その後、種直の子の種雄は鎌倉幕府から赦免され、1203年に秋月庄を賜ったといわれています。 移り住んだ秋月を名字とした種雄は、以後秋月氏を称することになります。

特筆すべきは秋月第16代領主の種実です。 種実は秋月氏の歴史の中で最も領地を広げた人物であり、九州でも有名な戦国大名だったといわれています。

毛利氏のもとに落ち延び、やがて大友氏の衰退とともに再興を果たした種実は、さらに島津義久と手を結び大友氏に対抗しました。一時は筑前に6郡、筑後に4郡、豊前に1郡と推定36万石にも及ぶ広大な所領を築き上げ、秋月氏を最盛期に押し上げました。

しかし秋月氏の秋月藩は、豊臣秀吉の九州征伐により、実質種実の代で幕を降ろすこととなります。1587年、豊臣秀吉の九州征伐では島津氏に属し豊臣勢に抵抗したものの、圧倒的な兵力の差から重臣の恵利内蔵助暢尭 は秀吉軍と戦うことは無謀だと考え、種実に和議を進言しました。しかし全く聞き入れられず、自ら命を絶ち主君を諫めようとしました。そんな悲劇の忠臣を祭るのが「鳴渡観音堂」です。

和議には断固反対だった種実も、拠城がわずか1日で落城する様を見ると、負けを悟って名器の茶入れ「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」を献上し降参しました。(※現在所在不明) 降伏は許されましたが本領安堵とはならず、種実は日向国高鍋に移封されます。

ちなみにこの茶器、もともとは足利義政の所有物で、死後は持ち主を転々としました。かの織田信長も欲しがったものの本能寺の変により実現しませんでしたが、紆余曲折あり、当時勢力を伸ばしていた種実の手元に渡る運びとなったのです。

1600年の関ヶ原の戦いで、種実の子・秋月種長は西軍に属して大垣城を守備していましたが、9月15日の本戦で西軍が敗れると東軍に内応して大垣城にて反乱を起こします。

戦後、その功績を認められ徳川家康から所領を安堵され、その後の秋月氏は江戸時代を通じて、日向高鍋藩として存続しました。 数々の戦乱の中で生き残ってきた秋月氏。 初代種雄から始まり17代の種長(日向高鍋藩初代)までの、約400年にも及ぶ秋月での活躍はここで一旦区切りを迎えます。

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