鳴渡観音堂

秋月種実の家臣を祀る人里離れた寺

鳴渡観音堂は、1587年に切腹をした藩の家臣である恵利内蔵助暢堯(えりくらのすけのぶたか)ゆかりの地です。

暢堯の不幸な死は秋月種実と豊臣秀吉の争いが発端でした。九州平定を目論む秀吉軍を迎え撃つために種実からスパイとして秀吉陣営に送られた暢堯は、秀吉側から秋月氏の降伏と島津氏との同盟関係の放棄を求められます。 その見返りとして秋月氏は筑前国と筑前国を受け取ることを約束されました。

暢堯は強大な秀吉勢を前に、秋月勢では到底抗しきれるものでないことを悟り、種実に和を結ぶことを進言しますが理解を得られず、かえって怒りを買ってしまうことになります。

暢堯は降伏を示唆したことで嘲笑され、ついには妻子を道連れに切腹を選ぶという悲しい結末を辿ることになります。

受け入れらなかった暢堯の忠告。その後秋月に秀吉勢が攻め入り種実は降伏します。 このとき種実は剃髪し、名茶器『楢柴肩衝(ならしばかたつき)』と国俊の刀を秀吉に献上し、さらに娘の竜子を人質に出したことにより秋月氏存続は許されたものの、秀吉の命令で日向国財部(後の高鍋)3万石に減移封されました。

のちに暢堯の忠誠心に感銘を受けた黒田長興によって鳴門観音堂が、昭和に入ってからは暢堯の殉節碑が建立されました。

寺院の名前は、「鳴門」(流れる川を指す)とそこに祀られている慈悲の神である観音にちなんで名付けられました。

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