意外と知られていませんが、実は秋月は「日本書記」の中でも言及されています。飛騨地方の「両面宿儺」や、全国に伝承のある「土蜘蛛」と並び、秋月城下町がある朝倉地方には「羽白熊鷲(はじろくまわし)」の伝説があります。この羽白熊鷲とそれを討伐した神功皇后に由来する寺社や記念碑が現存します。
西暦200年。時の仲哀天皇が崩御し、その後実権を握ったの妻の神功皇后。夫の死を悲しむ間もなく出産間近の身でありながら自ら兵を率いて朝鮮出兵を敢行し、朝鮮三国(新羅・百済・高句麗)をあっさり降伏させるなど実力ともに秀でていました。 多くの言説がある「邪馬台国」には、神功皇后をあの”卑弥呼”に重ねて語られたともいわれています。
神功皇后の朝鮮出兵から少し時を遡ること、秋月の荷持田村を根城に暴れ廻っていた羽白熊鷲(はじろくまわし)は、朝鮮出兵のために兵力が必要な仲哀天皇・神功皇后と出会います。
羽白熊鷲は「豪族」とされていますが、この時代のそれは富・権力の象徴というより、原住民に近い意味で使われていたといってよいでしょう。
そんな羽白熊鷲は、その名の通り背中に大きな羽が生えており、空を高く飛ぶことができたそうです。 神功皇后を嘲笑するかのように、その頭上をゆらりと飛び回っていたのでしょうか?
さて、羽白熊鷲を討伐すべく軍勢を率いて御笠川沿いに南下した皇后軍は、砥上岳(朝倉郡筑前町夜須)の南麓に本陣を置きました。
しかしさすがの羽白熊鷲も、神がかりに強い神功皇后には敵わず討伐されてしまいます。 本陣跡は現在も、中津屋神社 として残っています。 古処山の南麓へ戻った皇后は「熊鷲(羽白熊鷲)を討ち取ったので即ち我が心安し」と周りに告げ、その地を安(やす:夜須)と名づけました。
神功皇后からすると、言うことを聞かない「悪」の象徴だった羽白熊鷲。しかし裏を返せば、彼なりに縄張りを守ろうとしての決死の行動だったのかもしれません。 その証拠に、地元には彼を讃える「記念碑」が建設されています。
さて、三韓征伐を達成した神功皇后は、その後天皇の遺児である誉田別尊 (のちの応神天皇)を出産します。翌年、誉田別尊の異母兄である2名を退けて凱旋帰国。
この2皇子の母は仲哀天皇の正妻だったため、結果として神功皇后はクーデターを起こしたことになります。 クーデターの成功により神功は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子としました。
神功皇后の輝かしい功績の数々。その歴史の一端を、キーパーソンとして爪痕を残した羽白熊鷲への興味は増すばかりです。
ちなみに、邪馬台国 - 甘木朝倉説の重要な神社でもある「大己貴神社」は、(福岡県筑前町(旧 三輪町))皇后が兵士を招集するために創祀し、戦勝を祈願したとの言い伝えがある古社です。 「福岡県筑前町弥永の大己貴神社付近」と「奈良県桜井市三輪の大神神社付近」の地名や地形も偶然とは思えないほど酷似しており、未だ決着していない「邪馬台国論争」にも熱が入ります。