秋月の乱:史上最後の武士の戦い(1876年10月27日〜11月14日)

明治政府に対する士族反乱のひとつである「秋月の乱」。 宮崎車之助を筆頭とした旧秋月藩士は、新政府による廃刀令と文明開化を含む開明的政策に反対し国権の拡張を訴えました。士族による戦としては日本史上最後のものになります。 西洋化された政治体制により、実質的な地位・経済的特権が失われたことに反発した士族は、今村百八郎を隊長とする「秋月党」を挙兵します。

日本史上、士族による最後の戦いの舞台になった秋月

実は秋月の乱の3日前、 同月24日に熊本にて「神風連の乱」が起きていました。 熊本鎮台の司令官や県令が殺害されたものの、翌日には新政府軍により鎮圧されます。 しかし、初日の様子だけを見た秋月からの使者が「神風連が勝利した」との誤報を広めてしまいます。 これが導火線となりました。

神風連の乱に呼応するように、秋月より200名以上の士族が、他の反乱に合流するべく豊津近くへ向かいました。 また、地元の仏教寺院である明元寺にて、説得にあたった福岡県警察官の穂波半太郎が殺害されてしまいます。これが日本初の警察官の殉職だといわれています。 その二日後、豊津に到着した士族たちは、同盟国の仲間がすでに投獄されていることを知ります。 10月31日、追い詰められた秋月党は解散。指導者のうち7人が切腹自殺をしました。 唯一、抗戦派の今村は他26名とともに秋月へ戻ります。秋月小学校に置かれていた秋月党討伐本部を襲撃し県高官2名を殺害、反乱に加わった士族を拘留していた酒屋倉庫を焼き払ったのち、分かれて逃亡したものの11月24日に逮捕されました。 12月3日、福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下されました。 秋月博物館には、幹部直筆の辞世の句なども展示されています。

言語を選択してください

×