秋月の歴史

福岡県朝倉市の中心地から北へ約7キロ、のどかな山間の盆地に秋月の城下町があります。 国内でも数少ない「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、城址や武家屋敷などが今日も大切に保存されている秋月は、鎌倉時代から領地を支配していた秋月氏16代(1203年からの400年)、江戸時代から藩主を務めた黒田氏12代(1600年からの約300年)と、期間にして約800年もの長い歴史を脈々と受け継いできた秋月に一歩足を踏み入れると、そこには昔ながらの日本の原風景が広がっています。

神話にも登場した秋月

西暦200年。時の仲哀天皇が崩御し、その後実権を握ったの妻の神功皇后。夫の死を悲しむ間もなく出産間近の身でありながら自ら兵を率いて朝鮮出兵を敢行し、朝鮮三国(新羅・百済・高句麗)をあっさり降伏させるなど実力ともに秀でていました。 多くの言説がある「邪馬台国」には、神功皇后をあの”卑弥呼”に重ねて語られたともいわれています。

神功皇后の朝鮮出兵から少し時を遡ること、秋月の荷持田村を根城に暴れ廻っていた羽白熊鷲(はじろくまわし)は、朝鮮出兵のために兵力が必要な仲哀天皇・神功皇后と出会います。

羽白熊鷲は「豪族」とされていますが、この時代のそれは富・権力の象徴というより、原住民に近い意味で使われていたといってよいでしょう。

そんな羽白熊鷲は、その名の通り背中に大きな羽が生えており、空を高く飛ぶことができたそうです。 神功皇后を嘲笑するかのように、その頭上をゆらりと飛び回っていたのでしょうか?

さて、羽白熊鷲を討伐すべく軍勢を率いて御笠川沿いに南下した皇后軍は、砥上岳(朝倉郡筑前町夜須)の南麓に本陣を置きました。

しかしさすがの羽白熊鷲も、神がかりに強い神功皇后には敵わず討伐されてしまいます。 本陣跡は現在も、中津屋神社 として残っています。 古処山の南麓へ戻った皇后は「熊鷲(羽白熊鷲)を討ち取ったので即ち我が心安し」と周りに告げ、その地を安(やす:夜須)と名づけました。

日本神話の重要シーンに爪痕を残した羽白熊鷲。その舞台がここ秋月

神功皇后からすると、言うことを聞かない「悪」の象徴だった羽白熊鷲。しかし裏を返せば、彼なりに縄張りを守ろうとしての決死の行動だったのかもしれません。 その証拠に、地元には彼を讃える「記念碑」が建設されています。

さて、三韓征伐を達成した神功皇后は、その後天皇の遺児である誉田別尊 (のちの応神天皇)を出産します。翌年、誉田別尊の異母兄である2名を退けて凱旋帰国。

この2皇子の母は仲哀天皇の正妻だったため、結果として神功皇后はクーデターを起こしたことになります。 クーデターの成功により神功は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子としました。

神功皇后の輝かしい功績の数々。その歴史の一端を、キーパーソンとして爪痕を残した羽白熊鷲への興味は増すばかりです。

ちなみに、邪馬台国 - 甘木朝倉説の重要な神社でもある「大己貴神社」は、(福岡県筑前町(旧 三輪町))皇后が兵士を招集するために創祀し、戦勝を祈願したとの言い伝えがある古社です。 「福岡県筑前町弥永の大己貴神社付近」と「奈良県桜井市三輪の大神神社付近」の地名や地形も偶然とは思えないほど酷似しており、未だ決着していない「邪馬台国論争」にも熱が入ります。

中世の秋月氏の歴史(1203-1600)

秋月氏の祖は、平安時代に太宰府を中心として勢力を誇った大蔵氏です。 当主だった大蔵種直は平家政権に属しており、壇ノ浦の戦いで敗れてしまいます。

その後、種直の子の種雄は鎌倉幕府から赦免され、1203年に秋月庄を賜ったといわれています。 移り住んだ秋月を名字とした種雄は、以後秋月氏を称することになります。

特筆すべきは秋月第16代領主の種実です。 種実は秋月氏の歴史の中で最も領地を広げた人物であり、九州でも有名な戦国大名だったといわれています。

毛利氏のもとに落ち延び、やがて大友氏の衰退とともに再興を果たした種実は、さらに島津義久と手を結び大友氏に対抗しました。一時は筑前に6郡、筑後に4郡、豊前に1郡と推定36万石にも及ぶ広大な所領を築き上げ、秋月氏を最盛期に押し上げました。

しかし秋月氏の秋月藩は、豊臣秀吉の九州征伐により、実質種実の代で幕を降ろすこととなります。1587年、豊臣秀吉の九州征伐では島津氏に属し豊臣勢に抵抗したものの、圧倒的な兵力の差から重臣の恵利内蔵助暢尭 は秀吉軍と戦うことは無謀だと考え、種実に和議を進言しました。しかし全く聞き入れられず、自ら命を絶ち主君を諫めようとしました。そんな悲劇の忠臣を祭るのが「鳴渡観音堂」です。

和議には断固反対だった種実も、拠城がわずか1日で落城する様を見ると、負けを悟って名器の茶入れ「楢柴肩衝」を献上し降参しました。(※現在所在不明) 降伏は許されましたが本領安堵とはならず、種実は日向国高鍋に移封されます。

ちなみにこの茶器、もともとは足利義政の所有物で、死後は持ち主を転々としました。かの織田信長も欲しがったものの本能寺の変により実現しませんでしたが、紆余曲折あり、当時勢力を伸ばしていた種実の手元に渡る運びとなったのです。

1600年の関ヶ原の戦いで、種実の子・秋月種長は西軍に属して大垣城を守備していましたが、9月15日の本戦で西軍が敗れると東軍に内応して大垣城にて反乱を起こします。

戦後、その功績を認められ徳川家康から所領を安堵され、その後の秋月氏は江戸時代を通じて、日向高鍋藩として存続しました。 数々の戦乱の中で生き残ってきた秋月氏。 初代種雄から始まり17代の種長(日向高鍋藩初代)までの、約400年にも及ぶ秋月での活躍はここで一旦区切りを迎えます。

黒田藩の歴史(1600〜 1868年)

明治維新まで続いた黒田藩の功績 - 歴史を経て故郷に戻ってきた秋月家の血

1600年、黒田長政は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康に、恩賞として福岡・秋月を含む筑前国を与えられました。長政はそこに「福岡」という城下町を形成し、福岡藩の初代藩主となります。

そして自身の叔父である黒田直之には一万石を与え、秋月に移り住まわせました。 1623年、長政の遺言により二代藩主の忠之は、弟の長興に秋月周辺の五万石を分け与え、支藩秋月藩が誕生します。 今日のこの秋月城下町の基盤をつくったとされるのが、この長興です。

時が過ぎること1774年(安永3年)、7代藩主の長堅は、わずか18歳の若さで亡くなってしまいます。藩はこの事実を隠蔽しようとしました。そして翌年、日向高鍋藩主 秋月種穎の次男である幸三郎(のちの名君 8代藩主長舒)を後継ぎとしました。

8代目藩主の長舒は、叔父である米沢藩主の上杉鷹山(秋月家からの養子)をはじめ、先祖に上杉謙信・秋月種実・黒田如水・吉良上野介 ・妻方に山内一豊 などの多彩な血筋を持ち、後に秋月藩中興の祖と讃えられた人物です。

一度は故郷・秋月を離れざるを得なかった秋月家。 しかし、秋月家からの養子であった長舒という人物を通し、長い離散の歴史を経て、ここで今一度合流したのです。

長舒の功績のひとつに、秋月の観光名所「眼鏡橋」の建設が挙げられます。 筑前秋月と筑後・豊前を結ぶ木の橋は、人馬の往来が激しく橋の損傷も著しく、大洪水時には瞬時に流されてしまいました。長崎に警備していた長舒は、長崎の石橋と同じものを野鳥川に架けたいと渇望しました。

着工はしたもの、長舒の想い空しく竣工目前にして橋は崩壊します。病床にあった長舒は目鏡橋の完成を見ることなく1807年(文化4年)に43歳の若さで逝去しました。終ぞ長舒が拝むことのなかった眼鏡橋は、今日に至るまで秋月の観光名所として、長舒の想いを繋ぐ架け橋として地元の人に愛され続けています。

最後の筑前福岡藩藩主である12代・長知は、能楽を好み多くの能楽師達を支援しました。そして初代福岡知藩事となりました。 黒田藩は1868年の明治維新まで、その土地を治めることになります。

秋月の乱:史上最後の武士の戦い(1876年10月27日〜11月14日)

日本史上、士族による最後の戦いの舞台になった秋月

明治政府に対する士族反乱のひとつである「秋月の乱」。 宮崎車之助を筆頭とした旧秋月藩士は、新政府による廃刀令と文明開化を含む開明的政策に反対し国権の拡張を訴えました。士族による戦としては日本史上最後のものになります。 西洋化された政治体制により、実質的な地位・経済的特権が失われたことに反発した士族は、今村百八郎を隊長とする「秋月党」を挙兵します。 実は秋月の乱の3日前、 同月24日に熊本にて「神風連の乱」が起きていました。 熊本鎮台の司令官や県令が殺害されたものの、翌日には新政府軍により鎮圧されます。 しかし、初日の様子だけを見た秋月からの使者が「神風連が勝利した」との誤報を広めてしまいます。 これが導火線となりました。

神風連の乱に呼応するように、秋月より200名以上の士族が、他の反乱に合流するべく豊津近くへ向かいました。 また、地元の仏教寺院である明元寺にて、説得にあたった福岡県警察官の穂波半太郎が殺害されてしまいます。これが日本初の警察官の殉職だといわれています。 その二日後、豊津に到着した士族たちは、同盟国の仲間がすでに投獄されていることを知ります。 10月31日、追い詰められた秋月党は解散。指導者のうち7人が切腹自殺をしました。 唯一、抗戦派の今村は他26名とともに秋月へ戻ります。秋月小学校に置かれていた秋月党討伐本部を襲撃し県高官2名を殺害、反乱に加わった士族を拘留していた酒屋倉庫を焼き払ったのち、分かれて逃亡したものの11月24日に逮捕されました。 12月3日、福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下されました。 秋月郷土資料館には、幹部直筆の辞世の句なども展示されています。

秋月のいま

長い歴史の栄華を受け継ぎ、後世に伝えるべく私たちができること

神話に始まり、秋月藩、黒田藩、そして秋月の乱… 着実に日本の歴史にその名を刻んできた秋月。 一度歴史を紐解くと、その重みに圧倒され、春の桜・秋の紅葉シーズンだけでなく、幾度も訪れたくなる魅力溢れる街となります。 そんな魅力の詰まった秋月ですが、今では総世帯数283世帯、例に漏れず高齢化の波を受けています。 歴史とは「人」です。地元の人たちは、秋月の歴史と共に今日も変わらぬ生活を営んでいます。彼らの生活がこれからも長く続くことが我々の願いです。 秋月のためできることはなにか? それは長い歴史を後世に伝え守り、そして繋いでいくこと。そのためにはより多くの若い世代に、秋月の魅力を知ってもらうことです。

秋月「古処山」は世界的2大映画の舞台

秋月名所のひとつである「古処山」は、秋月藩の隠し砦(大将隠し)の山城がある山です。 かの有名な黒澤明監督の「隠し砦の三悪人(英題:The Hidden Fortress)」は、秋月城や古処山の大将隠しなどの史跡を基に脚本執筆・映画化されました。 それだけではありません。 ジョージ・ルーカス監督は、この黒澤監督の作品に感銘を受け、後の大ヒット作である「スター・ウォーズ」を制作しました。

ご紹介したこの2作品。観たことのある人もそうでない人も、今一度観比べてみてください。 古処山の見え方が変わってくるはずです。

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