腹切岩

種実の家臣 「恵利内蔵助暢堯」切腹の場

1587年、秋月の北側にある大きな岩が血まみれの自殺を招き、現在は「切腹岩」として知られています。

1587年4月21日、秋月種実の家臣だった恵利内蔵助暢堯(えりくらのすけのぶたか)が妻と娘2人を殺したあと自らも切腹。享年38歳でした。

暢堯の不幸な死は秋月種実と豊臣秀吉の争いが発端でした。九州平定を目論む秀吉軍を迎え撃つために種実からスパイとして秀吉陣営に送られた暢堯は、秀吉側から秋月氏の降伏と島津氏との同盟関係の放棄を求められます。 その見返りとして秋月氏は筑前国と筑前国を受け取ることを約束されました。

暢堯は強大な秀吉勢を前に、秋月勢では到底抗しきれるものでないことを悟り、種実に和を結ぶことを進言しますが理解を得られず、かえって怒りを買ってしまうことになります。

暢堯は降伏を示唆したことで嘲笑され、ついには妻子を道連れに切腹を選ぶという悲しい結末を辿ることになります。

受け入れらなかった暢堯の忠告。その後秋月に秀吉勢が攻め入り種実は降伏します。

のちに暢堯の忠誠心に感銘を受けた黒田長興によって鳴門観音堂が、昭和に入った1938年に暢堯の子孫によって殉節碑が建立されました。

殉節碑は鳴門観音寺に続く道にあります。 最北端にあるのが「切腹岩」です。

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